メイン コンテンツにスキップ
Candy 我家の日記帳 (仙台からお届けする徒然日記)
検索開始
ホーム
闘病記
あゆみ
読書日記
読書一覧
ビデオ一覧
裂織(気仙沼)
焼き芋(仙台)
仙台七夕(写真)
仙台七夕(絵画)
Hanan Library
  




四季の移り変わり、日々の出来事を徒然なるままに書き留めました。
消しゴムを持たぬ男の一直線

 DSC03828 DSC03821

19日から始まる9月の5連休は、息子の中学校の文化祭、自宅の垣根の剪定、気仙沼への見舞い、および墓地見学で終わった。

気仙沼の実家の母が軽い脳梗塞の病状を示し、1か月ほど入院することになった。当初は左手がしびれ、起きがけに少しふらふらするとのことで、兄嫁が大事を取って近くの病院に連れて行った。医者の初見では大したことはないとのことだったが、兄嫁が念のため2・3日入院をお願いしたところ、入院施設のある別の病院を紹介され、その病院で1カ月の入院を診断されたそうだ。

病院へ見舞ったところ、母は元気そうで、治療というよりは、しばらく静養するような感じだった。最近知り合いや親戚が脳梗塞で倒れる例があって、早めの入院で安心した。

気仙沼へ来たついでに市営の墓地を見学した。この墓地は気仙沼市内から相当離れた山間の斜面に造成されており、丁度、秋のお彼岸の時期だったので、多くの参拝者がそれぞれのお墓を訪れていた。いろいろな墓標があったが、墓碑に「消しゴムを持たぬ男の一直線」と刻んであった。昨夜の白洲次郎のドラマを思い起こすようなよい文句だ。

中学校の文化祭

 DSC04334

DSC04339息子の中学校最後の文化祭を家族で見学した。息子が所属する美術部はテーマがないことを文化祭のテーマとしていた。それだけ積み上げてきた作品の多様さに自信があったのだろう。

左の作品は漆塗りのお盆だ。名前の一文字をうまくアレンジしている。啓介の「啓」はお盆に刻む文字としてはおさまりが良いようだ。

フクロウの絵は、切りえ風のポップアートの雰囲気だ。

仙台のこの9月の5連休は晴天に恵まれて、もったいないほどのよい天気だった。   DSC04333 

おやじの会(Jinn Boy)

DSC03795DSC03796DSC03797   

向陽台中学校の文化祭に、焼き鳥を焼くメンバーの一員として参加した。メンバーは約10名。おやじの会のボランティアが中心で、会の名称はJinn Boyというそうだ。

おじん(oJinn)ではあるが、若い心(Boy)を持っているのでJinn Boyというのだそうだ。町内会の焼き鳥とは若干やり方が違っていたので多少戸惑ったが、炭火焼のこんがりとした焼き鳥を提供できた。ちなみに炭火の火力が強すぎて、写真下のように網を2段にして強火、中火の2段階で焼いて行った。

9月の夕暮れ

 DSC03775 DSC03784 DSC03781

母の満州時代の備忘録をサイトに載せてから、母の苦労した時代を少しだけわかったような気がした。

さて、9月の仙台の夕暮れを毎日の帰宅途中に眺めるのだが、すっきり爽やかで、いつも感動を与えてくれる。

我が家では一足早くお月見の暖簾を飾った。中秋の名月は18日に迫っている。晴れるとよいのだが。

母(チグサ)の備忘録

clip_image002私は大正15年10月1日、現在の一関市、西磐井郡萩荘村で、ノボル、ヒサの一女として生を受けた。役場勤めの父は「兵事係」として、兵事に関する一切の仕事を担当していた。母は世話好きな人だったようで、積極的に奉仕活動をしていた。

当時は国策によって満洲開拓が叫ばれ、十四、五歳の少年たちを 「満蒙開拓青少年義勇隊」に 応募させ、満洲へ、満洲へと派遣していた。 こうした状況下、これまた国策として「大陸の花嫁」という名目で花嫁募集が盛んに行われるようになった。

母は「大陸の花嫁」募集に積極的だった。私が十八歳になると、「他人様の娘さんへの声掛けだけでは申し訳ない」として、自ら我が子を岩手県へ申請した。私は両親の希望通り、「大陸の花嫁」として満洲に渡ることを決意した。

昭和十八年五月、岩手県庁のある盛岡に集合し、県知事から「激励の言葉」を戴き、東京に向かった。

故郷を旅発つとき、軍人を送るときと同じように日の丸の小旗を振る地域の方々の激励と見送りを受けて勇んで出発した。

私は「よしやるぞ」という意気込みが燃え上がるってくることを感じながら、何の不安もなく、故郷に別れを告げた。仙台駅からは引率のショウジ教官と学官の二人に付き添われた。

東京駅に着くと、東北地方の出身者が多く、岩手県が十三人、宮城県十人、青森県三人の総勢二十六人の編成だった。第一期生として渡満することになった。その時、出張中の父と別れの言葉を交わすことができなかったことが残念でならなかった。

しかし、渡満の準備などで、まだ東京に滞在していたときに、父が面会に駆け付けてくれた。 「覚悟して渡満する」と思っていたのでしたが、言葉では言い表せない感傷が胸に迫ってくるのを覚えざるを得なかった。

十八歳の娘を、今後いつ逢えるか分からない未知の満洲に旅立たせるのだ。国策とはいえ、父の心情は想像に絶するものがあったのではないでしょうか。

このとき、我が娘が終戦後、生死も不明で、放浪を続け、悲惨な生活から無事に生還してくることを予見することはできなかっただろう。

私たち一行は下関港から関釜連絡船に乗船した。乗組員は敵潜水艦の攻撃を避けるため、厳重な見 張りに当たっていた。全員、救命胴衣を着用させられたが、何の不安もなく、無事、釜山港に入港した。

釜山から列車に乗り、哈爾浜(ハルビン)を経由して、目的地である五常(ゴジョウ)に向かうのだが、途中休憩のために恰爾演で下車した。

そのときロシア料理を御馳走になった。田舎育ちの私にとって初めての外国料理だった。

古里では、風邪を引いて寝込んでしまったときや、病気になったとき以外は、卵や牛乳、果物を食べたことがない。塩引きの魚は食べられても肉などはお目にかかったことがなかった。

見るからに美味しそうなロシア料理が目の前に出たときは、その豪華さに驚くとともに、どこからどのようにして食べたらいいものか、分からなかった。その時のひと口目の食感が外国を実感させ、その感激は生涯忘れることができない。

哈爾浜(ハルビン)の北にある五常(ゴジョウ)に到着後、市街地にある五常訓練所に入所した。クマノさんという人が塾を経営していたあとの建物だった。翌年には広大な畑の中に立派な訓練所が建設された。

起床後、駆け足で五常神社を参拝するのが訓練の始まりだった。訓練生とはいえ、農家出身者だけではないので軽作業だった。主に開拓に関する講義や、家事手伝いに関する学習で、難しく感じることはまったくなかった。

時々、開拓団員の女性たちが研修に来た。一年近くが経つと、訓練生が義勇隊の青年と見合いをするようになった。話がまとまった人たちは訓練所の会館で合同結婚式を挙げるまでになり、平和で楽しい生活が続いた。

私は一期一年の訓練が終わって、開拓保健婦養成所の試験に合格。昭和十九年三月、開拓保健団佳木斯市(ジャムス)保健婦養成所の第一期生として入所した。メンバーの大半は開拓団の団長や医師の娘さんたちだった。 clip_image004

ある日、思いがけず、父が五常訓練所に岩手県の第四期生を引率してきた。異国の地での再会です。涙、涙の対面を果たすことができた。

五常に来た父は私にこう言った。「関東軍の兵士になっている兄が奉天(審陽)の部隊にいるので、帰るときに面会に寄る。お前も一緒に行かないか」と。

私は「自分は保健婦になるために勉強中なので行くことができない」と断った。父は一瞬、 寂しそうな表情を見せたのですが、あとは何も言わずに別れた。

奉天で父と面会した兄は「この戦は勝つ見込みがない。自分は満洲の地で国のために果てる覚悟です。郷里にいる家族のことをよろしくお願いします。これが私の遺品です」と言って、時計や身の回り品を父に渡したそうだ。その時、兄は二十三歳だった。

自分の目標、進路が見えてきたある日、ソ連の囚人部隊が侵入したという情報が入ってきた。全員、車で三江省にある第一次開拓団養成所に緊急避難することになった。

養成所は一階が保健所、二階が養成所と産院、育児園があり、病院には民間人の妊婦が出産して入院していた。私たちはここで一泊し、翌日、新京 を目指して避難することになった。

妊婦の人は「死んでもいいから連れて行ってもらいたい」と懇願するのでしたが、周りの人たちは「ここに居た方が安全だから」と言い残して出発した。妊婦の人は「連れて行って」と泣き叫んでいた。

私たちはどこか分からない駅に着いた。行き先の分からない列車に乗ったのだった。無蓋なので雨が降ると大変だった。何時間か経ったとき、心配していた雨が降り出した。全身びしょ漏れだった。

徒歩で避難している人たちが悲痛な叫びを上げていた。「乗せて行ってくれ」。無情にも列車は走り続けた。私たちはこの列車の中で「日本の無条件降伏」を知った。

列車から降りた場所は飛行場のある基地だった。勿論、軍人の姿は見えない。私たちは「赤十字」の旗を立てて、兵舎に宿泊した。

一般の人たちは格納庫に避難したのですが、ソ連兵や満人が侵入してきて、婦女子に暴行を繰り返し、物品を略奪していった。どうすることもできない。顔に泥を塗っても、女性ということが分かるので手の施しようがない。

三週間ほど滞在したでしょうか。新京に向けて汽車で出発した。私たちの仲間が腕を引っ張られ、引きずり落とされそうになったのですが、みんなで助け、犠牲者を出さないで済んだ。

新京では学校の避難所で生活することになった。開拓保健所の医師グループの理事長さん がみんなにお金を配分してくれた。そのうち、養成所の舎監の方から「あなたは、これから保健団のヒラヤマ常務理事の家族と行動するように」との指示を受けた。

ヒラヤマさんは立派な方だった。過去に一緒に過ごした職員に渡すお金を天井裏に隠した。

それを知った開拓団の人々が度々、ヒラヤマさんを訪ねてくる。その度にお金を渡していたようだった。ある日、日本人数人がヒラヤマさんを連行していった。

ヒラヤマさんの奥さんは日赤従軍看護病院の女医さんでしたが、とても気丈な方だった。早速、ご主人の所在する場所を捜し始めた。日本人が収容されている避難所を回り、相手方の対応や口調から、ご主人の所在を確認することができた。

その後、ご主人が愛読していた本を持参して、「主人がこの本を読んでいたので渡して下さい」と 言って、探りを入れたのですが、初めは「そんな人はいない」と断られた。根気強く何度も通っているうちに、その情にほだされた相手が本を受け取ってくれた。

ヒラヤマさんを連行していった日本人はどんな立場の人か分かりませんが、ヒラヤマさんの持っていたお金の使途を問い質したそうだ。相手方はヒラヤマさんの人格を理解して解放してくれた。奥さんの勇気ある行動に感動した。

このころになると、ソ連軍も引き揚げ、治安も安定した。八路軍の兵士の姿も見られた。ヒラヤマご夫妻と一緒に、日本人が所有していた土地を借りて商いを始めた。よく売れた。残った食品は行商して完売だった。

間もなく、国府軍が侵攻してきた。正規軍の兵士が飛行機から落下傘でどんどん降下してきた。各所で戦闘が行われているようで、銃撃戦の音が聞こえてきた。

この戦闘で八路軍は撤退し、国府軍が新京を支配したようだ。ある日、ヒラヤマさんが懇意にしている満人が蒋介石総統の奥さんの従兄弟に当たる方を連れてこられた。その方は大変立派な軍人だった。

その後、時々遊びに来るようになり、泊まっていく日もあった。ある時、泊まって帰る朝、拳銃を忘れていった。ヒラヤマさんから預かった拳銃を手に、私は懸命に後を追いかけ、拳銃を渡したことがあった。それだけヒラヤマさんを信頼していた。

安定した日々が続くなか、帰国命令が出た。ヒラヤマさん一家と一緒、胡盧島(コロトウ)から引き揚げ船に乗り、博多に上陸した。無事、祖国に帰還したときの喜びは口では言い表せない歓喜と感動だった。上陸したその日は昭和二十一年九月、秋が深まり、木々が色づいていたころだった。ヒラヤマさん一家とともに、長野県諏訪市に疎開していたヒラヤマさんの弟さんの家を訪れた。ここで一泊し、古里・岩手県萩荘村の実家に生還した。

連絡もできないまま、突然の帰宅だった。家族の喜び、驚きようは想像もつかない大騒ぎとなった。(2009/6/30記)

(注、本文に登場するハルビン、五常、ジャムス、新京、胡盧島(コロトウ)の位置関係を下記に示す。)

image

コーヒーポット

 DSC03754

他愛のないことをわざわざブログに書かなくてもよさそうなものだが、感動(!)したので書いておく。

写真中央のコーヒーポットを生協で買った。前から欲しかったものだが、値段が高くて写真左にあるフラスクを家内のお許しを得て使っていた。昨日の生協でこのポットが定価5,460円のものを1,780円で売っていた。実に7割引きの大判振る舞いである。あたかも、私に買ってほしいというようにこのポットが輝いていた。

早速事務所で使っているが、コーヒーを入れる間口が広くて使いやすい。

台風一過

DSC03725

今日から9月。昨夜の台風による雨も上がって、少し薄暗いものの泉ヶ岳がくっきりと見える素晴らしい朝となった。

30日の投票には家内と二人で、早朝の7時からの投票開始に合わせて近くの小学校へ向かった。実は仙台では先月に仙台市長選挙があったのだが、今回の選挙は前回と比べ物にならないくらい、多くの選挙民でごった返していた。それだけ、今回の衆議院選挙に関心があったのでしょうね。

結果は周知の通り。多くの既得権を無くし、リセットしてほしいものです。

カレーラーメン

DSC03715  DSC03713DSC03718

娘の通う高校でこの土曜日に文化祭があったので、家族で参加した。昨年は初めての参加だったので驚きの連続だったが、今回は2回目の参加なので落ち着いて見ることが出来た。

何よりも楽しみなのが学食での昼食だった。学食は大勢の生徒さんや家族連れで賑わっていた。私はカレーラーメンと書いてあるものを注文した。

値段が290円。確かに安いが想像していたものとは異なっていた。ラーメンの麺をゆでたものに単にカレーのルーを乗せたものだった。シナチクや鳴門、チャーシューが乗っていると期待するのは、少し贅沢か。味はとてもよかった。

夕焼け、朝焼け

 DSC03691 DSC03695

左の写真は夕焼けを撮ったもので、右の写真は朝日が昇る時の中学校の校庭だ。ようやく夏らしい天気になった。

DSC03566

それでも夏の終わりが刻々と近付いているらしく、庭に植えたトマトの収穫がめっきり減ってしまった。枯れ葉も目立ってきて、特にあんなにたくさん実が生っていたミニトマトは、一日2,3粒しか採れない。

蝉も近くの林で盛んに鳴いている。来週からは子供たちの学校が始まる。これで子供たちにとってつかの間の短い夏が終わる。

お盆休み明け

お盆期間中から夏らしい天気が戻ってきた。今朝も少し雲があるが好天になりそうだ。

DSC03664 DSC03663

写真はエースポートの岸壁から内湾を撮ったもの。右の写真は観光用の内湾クルーザーで、ビールを飲み料理を楽しみながら太平洋とリアス式海岸の美しさ、荒々しさを堪能できる。

丁度台風が三陸沖を通過中だったようで、多くの漁船が港に係留していた。船籍を見ると他県から来ている船が多い。そのせいか気仙沼市内は漁船員でにぎわっているという。また、家内によるとファミリーレストランでインドネシア人の青年を多く見かけたとのこと。多分、日本の船に乗っている漁船員だと思うが、つかの間の日本での休日を楽しんでほしいものだ。

1 - 10 次へ

 ページターン

焼き芋

 夜のしじま

夜のしじま

 機関車トーマス

機関車トーマス

 ‭(非表示)‬ 管理リンク